【鬼島津シリーズ①】 鬼島津の敵中突破
注意:事実を元に書きますが、一部創作も入っていますので、全部を鵜呑みにしないようにお願い致します。
■天下分け目の関ヶ原
天下分け目の関ヶ原の合戦において、島津家は徳川家康に参戦を請われました。
何故西軍ではなく、東軍である徳川家康から参戦を請われたのか?という事ですが、
当時の島津家当主は日本七本槍の島津忠恒(のちの家久。島津義弘の三男であったが、長男、次男が早世したために当主となった)で、この忠恒は先見の明があり家康と懇意にしていたからです。
島津義弘はやる気満々で、意気揚々と大阪にいた手勢千名を引き連れて参戦に向かいます。
同時に薩摩の本領に援軍を請いました。
しかし、実の息子であり当主である島津忠恒と実の兄である島津義久から驚きの回答を受け取ります。
忠恒&義久
「伊集院の反乱とかあって内部が分裂しつつもあるし、九州は西軍寄りのやつが多いから援軍は無理」
本国にやる気がないのなら参戦しないって思うのが普通です。
そもそも戦争するにはお金がかかりますからねー
でも、それはあくまで「普通」の考えであって、島津義弘にそんな常識とかは無い訳ですよ。
「鬼島津」の名に恥じないように、もちろん参戦の意思を覆しません。
本国も意思を覆さなかった訳ですが、島津四兄弟の家久の息子である豊久だけが義弘に同調して、
勝手に手勢500名を引き連れて援軍に向かって行きました。
義弘&豊久は西軍本拠地である大阪で孤立していたため、数少ない東軍と合流を図ります。
この合流を図ろうとした相手が鳥居元忠の居城である伏見城に向かいました。
ところが...
命令がないと臨機応変に対応しないとも言えますが、朝鮮の役でも大活躍した島津を入城させて暴れられたら大変だと判断した鳥居元忠は、
島津義弘の要請をガン無視。
島津義弘を入城させずに追い払いました。
怒髪天を突く勢いで怒り狂った義弘と豊久は、その怒りの勢いで西軍に付くことを決意します。
政治的な事を一切考えずに、とにかく戦えればOKなのかと疑いたくなるようなこの決断...
頭のネジが何本かイカれているとしか思えません。
西軍に付いた島津でしたが、西軍首脳陣はわずかな手勢の島津軍を軽視して冷遇したため、島津はまた激怒。
もう東軍でも西軍でもない...
第三勢力と言っても過言ではない状態で関ヶ原の合戦を迎えました。
関ヶ原の戦いが始まっても、西軍の指示を無視して参戦しない島津軍でしたが...
義弘&豊久は、血が騒いで騒いで仕方なくなって参戦してしまいます。
小早川秀秋の裏切りにより、味方の西軍が総崩れとなり、決着が付いた頃には手勢が300になっていました。
義弘
「あ"---もうダメ!!さすがにこりゃ切腹しかねぇーわ!!」
手勢も少ないし、味方も総崩れ。
死を覚悟した義弘でしたが、豊久がそれを制止して...
義弘に「敵中突破」を決意させます。
そしてこの敵中突破が、後の世に「島津の退き口」で知られる事となるのです。
義弘はまず手勢300を鼓舞し、捨て奸と呼ばれる追撃する敵を足止めするための順番を決めたりしました。
※捨て奸とは
本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。
足止め隊は主に鉄砲の名手が多く、その鉄砲の名手が指揮官だけを狙い撃ちして足止めすると言われています。
自軍の戦力を少し割いて、相手の戦力を大きく削ぐという苦肉の策です。
その最中、敗走した西軍の兵が合流しようとすると...
義弘
「撃て撃てぇーーー!!」
義弘は、味方も敵も島津以外は鉄砲をぶっ放して追い払いました。
さすが「鬼島津」ですね。
敵だけならまだしも、味方にも容赦ない。頭おかしい。
最初は福島正則隊に突撃します。
福島正則
「島津との交戦は禁止!!」
呉子曰く
『凡そ兵戦の場は、屍(しかばね)を止(とど)むるの地なり。死を必すれば則ち生き、生を幸(ねが)えば則ち死す。』
と、呉子の兵法にあるように...
死を覚悟した兵を相手にすると損害が大きくなるため、余計な損害を出したくない福島は島津との交戦を禁止しました。
もちろん追撃もNG。
しかし、そんな島津に追撃命令を出したやつがいました...
徳川家康
「寡兵の今こそ島津を討ち取る好機じゃーーー!!」
家康の配下、本多忠勝、井伊直政、松平忠吉らが次々に島津に追撃します。
イケメンで高身長、忠義心が誰より強く、当時の女性から圧倒的支持を受けていた赤備え(徳川軍精鋭隊)の井伊直政は、高身長と重装備が災いして重傷を負い、これが元で後に死去します。
当時の多くの女性が悲鳴をあげて涙しましたことでしょう。
家康四男でイケメン、歳若く将来有望な大将の器を備えていた松平忠吉(井伊直政の娘婿)も、この時の追撃戦で重傷を負いこれが元で後に死去します。
天下の諸侯がその死を惜しみ涙しました。
現代の小学4年生の平均身長で1hydeもない、超の付くチビである本多忠勝は落馬!!
しかし華麗な受身で着地、さらに小さい事が幸いして鉄砲の弾が当たらず無傷でした。
家康が島津を潰したいのには、いくつか理由がありました。
①関ヶ原合戦以後の領地決め。
褒美が少ないと謀反の可能性がありますので、平等に配分する必要があります。
不平不満が出ないように、何とかうまく配分する必要がありました。
それには褒美として渡せる領地が多い方が良かったんですね。
②島津が強すぎる
鬼島津は、明(中国)と朝鮮連合軍20万を、7千の兵で...
ほとんど一方的な「虐殺」に近い形で勝利しています。
世界史的に見ても、これは例に無いほどの大勝利で...
家康
「空前絶後!!前代未聞!!圧倒的な大勝利!!」
と評価しているほどでした。
島津を褒める一方で脅威も感じていたようです。
③義久を尊敬
家康が尊敬する人物は数多くおり、家康自身が一番尊敬している人物は「源頼朝」でした。
理由は大将自ら出陣せずに数々の戦に勝利したからです。
それを戦国時代にやっていたのは、島津義久くらいでした。
そのため、島津義久を尊敬していたと言われており、脅威も感じていたため力を削ぎたかったようです。
島津義弘は追撃を振り切りましたが...
そこで思わぬ人物に出会います。
立花宗茂です。
立花宗茂は、戸次鑑連(「べっき あきつら」と読みます。別名「立花道雪」ですが、立花と自身で名乗ったことは一度もないので、戸次鑑連の方で記述します)の婿養子で、
実父は名将で名高い高橋紹運です。
その高橋紹運は、島津義弘との戦に破れて亡くなっていたため、島津義弘は実父の仇敵でした。
立花宗茂の家臣達は、ここで義弘を討ち取るべきだといいましたが...
と言って、実父の仇敵である義弘を護衛しました。
敵中突破を見事に決められてしまった家康は大激怒して、九州の諸大名を島津討伐に向かわせます。
義弘は帰国後すぐに、徳川からの討伐隊を警戒して薩摩の防備を固めます。
そして、鬼島津と呼ばれた義弘の三男であり、日本七本槍の一人、当時の島津当主である...
「 島 津 忠 恒 」が、むくりを頭を上げました。
続く...